
少し前まで、わが家の本棚は紙の本で溢れかえっていた。
読書好きなので、気に入った本を買っては並べ、読み終えた本もそのまま残していた。気づいたときには本棚だけでは収まりきらず、床に積み上げたり、箱にしまったりしていたのだ。
しかし、「暮らしのサイズダウン」を遂行するために、少しずつ本を処分し始めた。
ほとんどはブックオフへ持ち込んだが、メルカリで売ることもあった。値段がつかないものは資源ごみとして手放した。最初は抵抗があったものの、一冊、また一冊と減らしていくうちに、本棚に余白が生まれ、部屋全体が軽くなったような気がした。
それでも、どうしても処分できない本がある。
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いつか読み返すかもしれない
なぜ処分できないのか。
その理由で真っ先に思い浮かぶのは、「いつか読み返すかもしれない」という気持ちだ。
人生に影響を与えたり深く感動した本。何度も線を引きながら読んだ本。そうした本に対しては、またいつかページを開く日が来るような気がしてしまう。
けれど現実には、その「いつか」がやって来ることはめったにない。
本棚に残っている本の多くは、数年どころか十年以上開いていないものばかりだ。あれほど心を動かされた本であっても、一度読んだあと再び手に取ることは驚くほど少ない。
考えてみれば、それも当然なのかもしれない。
本を読んで感動するのは、その本の内容だけではなく、そのときの自分自身との出会いでもある。十年前の自分に必要だった言葉が、今の自分にも同じように響くとは限らない。再読したいと思う気持ちはあっても、新しい本との出会いを優先してしまう。
ただ、本を手放せない理由はそれだけではない。
本には所有する喜びもある
紙の本には、内容とは別の価値がある。
表紙のデザインや装幀に惹かれるという視覚的な面。さらに、紙の手触りや厚みが心地良いというエモーショナルな部分。本によっては、もはや読むというより眺めるために持っているようなものもある。
本は知識の入れ物であると同時に、自分がこれまで何に興味を持ち、何を大切にしてきたかを示す記録でもある。処分するときには、本の内容を手放すというより自分の一部を手放すような感覚にもなる。
それでも、その感覚と実際に読み返す頻度は別の話だ。
所有していたい気持ちは確かにある。しかし、その本をもう一度開くかと問われると、答えは必ずしも「はい」ではない。
電子書籍になっても変わらなかった
十年ほど前から、読書の中心を紙の本から電子書籍に移行してきた。電子書籍の良い点は、読み終えても場所を取らないことだ。本を捨てる必要もない。
紙の本を手放すときには少し勇気が必要だが、電子書籍にはその葛藤がほとんどない。持っていても邪魔にならないから。
「本が増えて困る」問題は解決したはずだった。買っても場所を取らないし、いつでもライブラリから読み返せる。
…はずなのだが、やはり再読することはほとんどなかった。
ライブラリには何冊もの本が並んでいるが、そこから過去に読んだ一冊を開くことはほとんどない。多くの場合、新しく購入した本や積読になっている本へと意識が向かう。
そう考えると、ライブラリに残っている本の多くは、「いつでも読める」という安心感のためだけに存在しているといえるだろう。物理的な場所を取らないからこそ成立している状態だ。
一方で、こうも感じる。
もう二度と読むことがないような気がする本が延々と蓄積されていくことは、どこか気持ちが重い、と。見えない本棚が際限なく膨らんでいくような感覚だ。
Kindle Unlimitedという距離感
そんな中で使い始めたのが、Kindle Unlimitedだった。
月額課金(980円)で対象の本を自由に読めるサービス。もちろんすべての本が対象というわけではない。それでも読んでみたい本が十分に揃っている。
使い始めてみて感じたのは、この仕組みが意外なほど自分に合っているということだった。
読み終えたら返却する。デジタル図書館で本を借りるのと似ている(有料だけどね)。手元に残さなくてもよいという前提があるため、「所有する」という意識そのものが薄くなる。
以前は、本を買うことと本を持つことはほとんど同じ意味だった。しかし今は、本を読むことだけが目的になりつつある。
本とのちょうどいい距離
もちろん、何度も読み返したい本や手元に置いておきたい本もあるのは確かだ。けれど、それはごく一部である。
何度も繰り返すが、どんなに印象に残った本でも再読することは稀なのだ。
そう認めてしまうと少し寂しい気もするが、その事実を受け入れたとき、本との付き合い方は少し身軽になった。読むために手に取り、読み終えたら手放す。あるいは返却する。
一度読んだら満足して、めったに読み返さない自分には、本を所有せずに「読み終わったら手放す」このスタイルが、一番しっくりきている気がする。

